マエシュンの部屋

自分の興味・関心を何となく綴るブログ

変わる時代/変わらない時代

国民的アニメ、日曜日の夜を飾る二大アニメ、そう言えば自ずとあの二作品が各々の頭に思い浮かぶかもしれない。


ちびまる子ちゃん』『サザエさん


この二つの作品には一見すると共通点がないように感じるかもしれないが、大きな共通点が一つ存在する。


時代の移り変わりに左右されない作品性


それが二つの作品における最大のコンセプトと言えるのかもしれない。


ちびまる子ちゃん

ちびまる子ちゃんの放送が開始されたのは1990年の1月である。丁度バブル経済期で、テレビ番組としては世界まる見えやいきなりクライマックス、ドラマでは世界で一番君が好き!、アニメとしてはふしぎの海のナディアなど、いくつもの名作が生まれた年でもある。


ちびまる子ちゃん放送当時のまる子は、今現在のまる子よりも性格は怠惰で、ボーとした印象が強い。それでいてトラブルを起こしがちで、今よりもタチの悪いトラブルを度々起こしたりしていた。


そんなちびまる子ちゃんだが、今現在よりも90年代の放送当時では社会現象を風刺した作風が多かった。


例えばまる子のクラスメイトであるたかし君が苛められる姿が大きな反響を呼んだとある回。たかし君が遅刻を頻繁にすることから他の男子に苛められており、まる子が状況を見かねて必死に助けようとする姿は、いじめの深刻さを伝える一つの教材として取り入れてる学校もあるほどである。


この他にも様々な社会現象を作中に取り入れたりしており、正に時代の変化に対応した形で作品も形成されていった。


だが、ちびまる子ちゃんの中には今現在でも全く変化のない部分がある。それは、テレビの中の世界である。


まる子は山口百恵が好き。まる子の姉のさきこは西城秀樹が好き。このように、ちびまる子ちゃんの中のテレビ番組は、時代がいくら変化しようと一貫して変化することがないのである。


また、ちびまる子ちゃんでは携帯が登場するシーンも見かけることがない。時代時代に対応した物語性を顕にしながらも、原作当時の70年代の空気感を壊すことなく独自の空間を築き上げる。そこには、「時代の変化/時代の不変化」という、奇妙な矛盾構造が作り上げられている。


サザエさん』は一方でどうであろう。


サザエさん

サザエさんのテレビアニメは1969年の10月より放送が開始された。当時はドタバタな喜劇の色合いが強く、今でこそおっとりした印象のフネが強気で波平を追いかけ回していたりと、今とはかなりテイストの違う作りになっている。


サザエさんちびまる子ちゃんと同様に、奇妙な変化と不変化の入り混じった構造がある。サザエさんと言えば、古き良き当時の日本社会を今も変わらない状態で伝えている。電話に出る時は昔懐かしい黒電話で、マスオの勤務する会社にはパソコンがなかったり、伊佐坂先生の原稿作成も手書きであったりと、とにかくアナログ仕様である。


しかし、サザエさんにも時代の変化に対応した描写がいくつも見受けられる。波平がとある回で携帯を使用していたり、当時はなかった野口英世の1000円札や500円玉の登場、他にもあげればきりはないが、明らかに当時の作品にはない最新の時代のものが作中に顔を覗かせている。


ちびまる子ちゃん』の時代変化も、『サザエさん』の時代変化も、時代時代によって「時代遅れ」にならないための措置なのかもしれない。しかし、それが仇となっているのか、放送開始当時は30%台もの視聴率を記録することもあった両作品は、現在ではテレビ離れとも相まって10%台を普通に下回る低迷期を迎えている。


変わらないことも大切である。しかし変わることも大切である。その双方を上手く調和させて、時代の流れに付いていこうとするのは難題なのかもしれない。


サザエさん』は大型スポンサーであった東芝がCM制作降板を発表しており、これから環境がガラッと変わることがあるかもしれない。『ちびまる子ちゃん』も、今後の時代の変化でまたアニメそのものの放送が困難な事態が突入しないとも言いきれない。国民的アニメがかつての栄光への復権を完全な形で取り戻すのは恐らく不可能に近いのかもしれない。それでも、「誰もが知っているアニメ」「誰もが家族の温かさを感じれるアニメ」として、これからも視聴者の心を掴むことが、変わりゆく時代の中で変わらない一つの信念なのかもしれない。


リーダーの資質とは

よく、リーダーに求められる条件として、以下の項目を挙げる人が多い。

 

 

①先頭に立って、他のみんなを先導していく

②大多数の意見をまとめて、一つの明確な結論を案出する

③個の利益ではなく、全体の利益を生もうとする

 

 

いずれも、多く自己啓発書やビジネス書などを読み漁っていると、これでもかと読み手

に訴えかけてくる主張である。

確かに、曲がりなりにも間違った主張はどこにもない。

 

 

①→リーダーが先頭に立たないと、配下の集団は無統制状態になる

②→意見を散らばったままにさせると、まとまりや一貫性に欠ける

③→全体の利益向上が個の資質を高める基盤となる

 

 

①~③のどの主張も行動の後の結果の良好性が明白であるし、どれかが欠けてしまうと

途端に組織は統率力が失われ、求心力が削がれた状態に追いやられる。

 

しかし、果たしてこれら全てを満たしたリーダーこそが、模範となるべき存在と断言

できるのだろうか?この三要素を満たさずとも、一組織を十分に統轄できる資質は存在

するはずである。

 

 

例えば①を例にとってみる。①では、リーダーの積極性の有無が集団の意識に大きく関

係することが示唆されるが、積極的な姿勢に欠けた状態でも集団を引っ張っていくだけ

組織力は生み出せるはずである。

 

リーダーが先頭に立ち、他の者を率いることは、リーダーの立場に立てば「自分の意見

をしっかり聞いてくれてる」と主観するかもしれない。しかし、主観はあくまで主観。

率いられる側からすれば、「一人で意見を先走っている」「上から目線」「自分たちの

意見を反映させない」といった、ネガティブな印象を植え付けさせる要因になりかねな

い。

 

然るべきところでは先頭に立ち、普段は他の者に寄り添い意見をしっかりと聞く。基本

的な所ではあるが、ふと先頭に立つことばかりに思考を支配され、気を配れないリー

ダーになってしまっているかもしれない。

 

 

他の二つの要素もみていこう。②では意見を集約させて、一つの結論を編み出そうとし

ている。雑多な考えを一括りにして、意見の煩雑さを取り除くのは大切だが、そのこと

ばかりに囚われると一人の人間の革新的なアイデアを消し去ってしまうことになる。

 

それぞれの意見に耳を傾けて、それぞれの考えを一つ一つノートなどにメモしていきな

がら改めて整理をしていく。不必要と思える情報の中にも、僅かな有用性の芽が出てい

るかもしれない。その芽を結論の先急ぎで摘み取ってしまうのは、リーダーとして野暮

と言えるかもしれない。

 

 

最後に③を見ていく。全体の利益中心的な考えであるが、これだと個々の評価が後回し

にされたり、最悪な場合は評価の対象にすらならない場合もある。リーダーとして信頼

される大きな一歩として、自分自身がどうリーダーに見られているかを知ることは、相

互理解を深める場として非常に大きい。個人個人にしっかり向き合い、全体の(組織な

ど)利益に目先を向ける前に、立ち止まってそれぞれの利益を見出すことが、リーダーと

しても、全体としてもステップアップに繋がっていくのである。

 

 

改めてリーダーの資質について考えてみよう。リーダーとは単に集団の表に立って、独

りよがりで意見を組み敷いていくものではない。一人一人に寄り添う姿勢、先頭に立た

ずとも同じ立ち位置で全体の利益を見据えていく。これからリーダーを志す者、一つ心

得ておくと大きな力になるかもしれない。

魔法少女の変遷

魔法少女とは従来、人々を特殊な魔法の力で

助けて、勧善懲悪を成す正義の存在である。

その歴史は古く、魔法少女ものの作品の始ま

りは1966年に東映動画により制作された『魔法使いサリー』とされる。

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魔法使いサリーは当時の女の子達が目を輝か

せ、憧憬を抱いていた存在かもしれない。魔

法の国からこっそり人間界にやってきた魔法

少女が、空飛ぶ箒にまたがり、人々の悩みを

魔法によって解決していく。その姿は現実の

世界にはないもので、少女達の一つの成長の

目的地として、『魔法使いサリー』は魔法少

女というジャンルの土台を築き上げたといえ

る。

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そして、1992年になると後の魔法少女アニメ

の鉄則とも言える「複数人の魔法少女による

正義執行」を作り上げた、『美少女戦士セー

ラームーン』が放送開始される。主人公月野

うさぎが、ひょんなことから黒猫ルナの力に

より、セーラームーンとして悪の組織と戦う

ことになる。『魔法使いサリー』のような戦

いは特に存在せず、人々の悩み解決のために

奔走していた魔法少女の姿は、セーラームー

ンにより「コンセプトのある少女達」による

「世界平和のための戦い」を描いたものへ変化

していったのである。

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2000年代に突入すると、魔法少女アニメの鉄

則を編み出した『美少女戦士セーラームー

ン』の要素を受け継いだ、『プリキュア』シ

リーズが次々と放送されていく。始まりは

2004年にアニメ放送された『ふたりはプリキ

ュア』である。二人のヒロインがそれぞれキ

ュアブラック、キュアホワイトに変身して、

悪の組織ドツクゾーンの野望を阻止するため

バトルしていく。ストーリーを追っていくだ

けで、セーラームーン魔法少女像を強く投

影していることが分かる。プリキュアシリー

ズは反響を極めて大きく、幼稚園から小学校

低学年程度の女児に対して「好きなアニメは

何?」「なりたいキャラは何?」といった質問

に対して、プリキュアシリーズを答える子は

多数を占めると言われる。それほどまでに、

プリキュアシリーズの影響力はとても力強い

ものがあると感じ取れる。

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しかし、魔法少女の概念を根底からひっくり

返す作品が2010年代から顔を覗かせることに

なる。その作品とは『魔法少女まどか☆マギ

カ』(以下まどマギと略称)である。こちらの

作品はシャフトというアクの強い独特な映像

表現を駆使した作品作りに定評のある制作会

社が担当したオリジナルアニメ作品で、2011

年に1クールに亘り放送された。これまでの

魔法少女の通則と言えば、「魔法少女達が世

界平和のために戦う」「作品の雰囲気は全体的

に明るめ」なのが当たり前とされ、何より子

ども(特に女児)向けな色合いが強かった。だ

が、まどマギはとても子ども向けとは言えな

い残酷な世界観が展開されている。映像制作

集団イヌカレーによる独特な敵の描写、本来

ありえなかった魔法少女の死を描く驚愕の展

開。まどマギ魔法少女達は自身の叶えたい

願いの代償として、自身の命をソウルジェム

という代替物に宿して第三者に管理される。

魔法少女達は、自分自身の命がいつ消えても

おかしくない過酷な状況の中で、叶えたい願

いのために敵である魔女を倒し続ける。彼女

達の存在意義は、そうした苦悩の中にしか見

いだせないのである。

まどマギ以降に登場してくる魔法少女ものの

作品は、まどマギのようなダークな要素を詰

め込んだものが多くなっていく。2016年に放

送開始された『魔法少女育成計画』では、

(魔法少女育成計画)と呼ばれるゲームアプリ

からリアルに魔法少女として人々を助けるこ

とになった少女達が、やがてアプリ運営の者

から魔法少女の数を減らすことを告げられ

る。やがて自分自身の身を守るため、魔法少

女達はお互いに戦いに身を投じることにな

る。従来相対することのなかった魔法少女

士が戦うというストーリーは、正しくまどマ

ギのような暗く淀んだ印象を視聴者に強く植

え付ける。その他にも、『魔法少女オブジエ

ンド』や『間違った子を魔法少女にしてしま

った』など、2011年のまどマギ放送を契機に

嘗ての魔法少女作品像は変容され、明るさの

削がれた暗めの世界観を描いた作品が多くな

っているのである。

魔法使いサリー』から始まった魔法少女

系譜は、明るく正義のために戦う魔法少女

多く描いた「陽」の時代から、まどマギに代表

されるような、人の生死に関わり常に不穏な

空気が作品を支配しているような、「陰」の時

代に移り変わりつつある。それは、これまで

子どもが見るものと考えられてた魔法少女

のの作品が、大人向けの作品へと変化して、

より多様なニーズを生み出し続けているのか

もしれない。